一輪挿し


豊かな生活の一つの指標は、です。

日常の中に生花、特に切り花があることは、全世界共通の豊かさの指標です。




家の庭の花を育てること。
鉢植えの花に水をやること。


これらとは違って、切り花になった花は
それ以上大きく育つことはなく、枯れて死を待つほかありません。

実を結んで、鳥たちに種を運んで貰う未来は待っていません。
花で終える命。

そうやって花を手折り、命の限りを決定するのは

筆舌に尽くしがたい人だけがもつ「」の一つなのです。





「力」には残酷な一面が必ずあります。


残酷さを秘めつつも「花を愛でる」ことを選択し、人がその力を行使するのですから

切り花はやはり、豊かさの象徴なのです。



これが倫理的に良いとか悪いとかいうつもりはありません。

花の、美しいが故の運命だからです。


昆虫や鳥を招くために美しいということは、

人に手折られ、飾られることでもあるということです。








富める人もそうでない人も

記念日などにはレストラン、ホテル、記念館など
非日常に満ちた空間へ足を運ぶことがあると思います。

そんな場には必ず「切り花」があります。



エントランスや廊下には豪華な装花がありますし、
各テーブルの上には一輪挿しがあります。




そういえば、どこかの芸人さんが“オカンあるある”で

『外出先でオカンは「この花本物?」と確かめる』というのをネタでやっていましたが

実のところ、あれは本当に的を射ています。

世のオカンたちは長年の生活の中で、
客人としてその花を飾った主人の深層心理を読んでいるのかもしれません。



表向きに華やかに装いたいのは誰もが同じです。


しかし実際に切り花を飾るとなると、手間暇もかかりますし夏場なら暑くて一週間ももたないかもしれません。


こまめに水を変えても、じき枯れていく。
それなら造花の便利さに頼ってしまおう、という気持ちも客人としてよく理解できます。

世話をする労力も、
美しく装うことも、
華やかにもてなすことも、

すべて経験値として知ったうえでの「この花本物?」なのです。

造花だったとき。
「造花やないかい!」と思いながらも造花を選択した家の主人に共感する。

生花だったとき。
その手間暇を思いやり、嬉しく思う。



非日常の空間では、そんなゲストとホストの目に見えない微笑ましい遣り取りがあります。









さて、これが日常空間にある切り花となると少し事情が異なります。

それはまさに、相場と同じ。

「自分を映す鏡」となるのです。






はじめはその美しさに惚れ込んで飾ったとしても
大ぶりで香りも高く豪華な花ほど、その存在感から

自分の日常生活に堂々と「鎮座」するように感じられます。


そうやって二日、三日経ってもその豪華さに陰りが見えないことがわかると

いよいよ人は
その花に侵食され、押し切られてしまうものです。








例えば、胡蝶蘭。


胡蝶蘭を毎日家の中に飾る生活なんて豊かさの極みだと思いますが、

胡蝶蘭を買い込んで豊かな生活を実現したとしても
うわべだけを取り繕って「美を愛でたつもり」になっている人は、

だんだんとその胡蝶蘭の気高さに不快感を感じるようになります。

胡蝶蘭はあの独特の仕立てかた、艶かしく枝垂れる印象が強烈ですが

不思議なもので、小ぶりの一輪挿しに花一輪だけ生けられても

なお凜としていて
“雪豹”ような強さ美しさがあります。







毎日、自分の生活空間の中にその胡蝶蘭を飾って
純粋な気持ちでその美しさに見惚れる人は、100%の自信がある人です。


森の中、雪豹と目が合っても
自分が安全地帯にいて襲われないことが明らかであれば心穏やかでいられます。

しかし無意識のうちにもどこか自信が無く、少しでも場違いを感じていれば

その寸分の欠落を雪豹に見透かされるようで、襲われそうで、畏れ苦しむことになります。

そこは決して安全地帯ではなく、突貫工事でうわべだけを取り繕った場所。

いつ崩れ落ちるかわからない恐怖を感じながら過ごさなければなりません。




自分を映す鏡と書いたのはこのことです。





本当に美しいものを身近に置けば置くほど、

はじめは気付かなかった隙間風に、その身はいつか吹き飛ばされてしまうのです。










私はお花のプロではないので、立派な花器に大きく生けることはできませんが

一輪挿しを家のあちこちに飾るのは好きです。





山野草のような小さく可憐な花も、ランやチューリップのような大ぶりの花も

この一輪に花自身のエネルギーが感じられるからです。





盆栽ほどではなくとも、ミニチュアの世界が広がる気がして

目を遣る度に心が躍ります。







小学生の頃、通学路のあちこちに咲いていたタンポポの花。

そのうちの一つをを夢中になって分解した時の、
ミニチュアの自然を冒険するあの不思議な感覚を思い出します。



これも「私」という存在を映し出しているのでしょう。











こう書いている間に

一輪挿しの椿の花びらが一枚、いつの間にか落ちていました。



外側の一枚がだらりと広がっているな、とさっきまで見ていた花びらでした。


「落ちそうな花びら」「落ちた後の花びら」は何度も目にしますが

今まさに落ちゆく花びらを、私は見たことがありません。




どんな風に萼から離れ、
どんな風に舞いながら落ちるのか。


こんなにも身近に居ながら見たことがありません。





瞬きする間もないほどの一瞬なのだろうと想像します。





想像しながら、相場の値動きの
稀に起こる暴騰・暴落が始まる今まさにその瞬間というのも

私はまだ見たことがないことをふと考えました。






コピートレードや自動売買を運用のメインにしてチャートに張り付かなくなったのも一因ですが、

チャートに張り付いていた頃を振り返ってみても

買いが買いを呼ぶ前、売りが売りを呼ぶ前の「その瞬間」はいつの間にか過ぎ去っているものです。






花は落ちる瞬間に立ち会えないからこそ、惹かれる。



相場もまた、「その瞬間」が解らないからこそ


人は夢中になり、のぼせてしまうのかもしれません。






最後までお読みいただきありがとうございます。


私が使っている運用ツールシステムについては

コチラ 】 をご覧ください。



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